最近考えている「成功するには才能か努力か?」という問題について現時点での僕の考えを述べる前に、自分のケースを振り返ってみたいと思います。
きっとサッカーを真剣に打ち込んできた人は、僕と同じような経験・感覚があるかもしれません。
また、「これからサッカー選手を目指したい」もしくは「仕事で成功したい」という方にも共通のものなので参考になるかもしれません。
力の限界を感じた学生時代
僕の場合、高校までサッカーをしていましたが、小中高とずっと「プロ選手になりたいな」と思っており、いつもサッカーの事ばかり考え、特に中学・高校では毎日練習に明け暮れてました。
決して器用ではなかったですが、とにかくボールを蹴りたい、上手くなりたいという欲求は人一倍強かったと思います。
高校は県内で上位にくる強豪校で全国に出るか出ないかのレベルでしたが、サッカーの特待生という形で運良く進むことができました。
しかし特待生といっても更に県内のトップクラスが集まるので競争は激しいです。高校2年生の時は一つ上の学年でプレーするチャンスもあり選手権では何とか登録メンバー入り。
そして自分たちの代になった時に怪我をしてそのままサッカー人生にピリオドを打ちました。
「怪我をしなければ」というのは言い訳で、あのままではレギュラーは取れていなかったでしょう。
同級生がプロになりそして日本代表へ。
その時、高校まで一緒にやっていたのに、途中まで同じような道を進んできたのにどこで差がついたのか?
よく分からなかったですが、とにかく自分には無理だったんだなと悔しい気持ちと清々しい気持ち。とにかく競争に僕は負けたのです。
才能というものを感じる
その時の僕の答えは「自分は限界まで努力した。人一倍努力したから自分に才能がないのが分かった。ただし才能があるかないかが分かるのは、努力をした先でしか分からない。つまり自分は限界まで努力したから自分に才能がないことが分かった。」というものでした。
つまり「才能があるものが勝つ」。
しかし「努力を継続しないと自分に才能があるかどうか分からない」。
なんとなく「真理に近い」ような感じではないですか!?
そして18歳でサッカーコーチになった僕の哲学はそんな感じで、子どもたちへも「努力することの重要性」を説いて行きました。
本当に僕は努力を継続したのか?
しかし最近改めて考え直す機会があり、ある書籍に出会いました。
その本の中で印象が強かったのは以下の内容。
・圧倒されると才能がすごいと思ってしまう
・自分がラクだから人を神格化する
・ニーチェ(哲学者)言葉「芸術家の素晴らしい作品を見ても、それがどれほどの努力と鍛錬に裏打ちされているかを見抜ける人はいない。その方がむしろ好都合と言っていい。気の遠くなるような努力のたまものだと知ったら、感動が薄れるかもしれないから」
つまり「あの人は才能がある」といった場合、「相手を上に上げることで自分の地位を保っている」と考えられます。
反対に「才能がある人のことを、あの人は普通だ」とした場合、「今の自分の地位はすごく下がってしまう」。
つまり「あの人は特別だ」ということで自分の努力・継続する意志の弱さ(本当は自分に問題がある)から逃げているのかもしれません。
僕は本当に彼以上に努力し継続したのでしょうか?
冒頭に「特に中学・高校では毎日練習に明け暮れてました」と書きましたが、小学生時代はどうだったのか?僕が遊んでいる間に彼は一人で練習していたのかもしれない?
もっと取り組む課題があったのでは? もっと効率的にできる方法があったのでは?
時間の問題はある
もちろん、努力を継続すれば全員がプロになれるわけではありません。特にスポーツは年齢とも関係してくるのでずっと努力を継続して50歳で初めてプロになれるということはないでしょう。
しかし、他の分野ではどうでしょう。
仕事でも何でも時間的な制限がないものはどうでしょうか?
まだ決定的な答えには至っていませんが、努力を継続することの重要性、改めて考え直す必要がありそうです。